ある若い娘の死について

先日、まだ十代の学生が殺された。
経緯についてはさんざん報道されているので、ここでは書かない。
気になったのは、遺族のコメントがテレビの報道番組で朗読されたことだ。
マスコミがいつものように取材という名目で横暴な振る舞いをしていると言うことについての不満と、大切な娘を殺されてしまったことに対する悲しみと憤りをマスコミを通して訴えたかったのだろう。

「犯人はなぜ娘の命を奪ったのか
こんな酷い方法を選んだのはなぜなのか」

これまでにも普通の頭を持っていたらなぜ、と思うような似た事件がいくらでもあった。
この手の犯罪を行う輩は、それをやる意味などを考える頭が無いとしか思えない。
あたかも野獣のように、怒りにまかせて自分に別れを告げた女を殺してしまう。
良識を持った一般人には理解しがたい行動なのだが、こうした生まれてから成人するまで犯罪者になるような育て方をされてきた輩の行動を理解することなどできる筈も無い。
損得という観点から考えても、相手を殺してどんな良いことがあるのかと思うが、別れて2度と会えない状態になるのと、殺してしまうのと、2度と逢うことはできないという点では同じなのに、どうしてこんな簡単なことがわからないのだろうか。しかも、人を殺してしまったら殺人罪で裁かれて数十年も刑務所にいなければならない。日本という経済を別にしたら、とても遅れた国の刑務所は江戸時代とたいした違いが無いもので、恐ろしく過酷な施設だ。ヨーロッパのマスコミの人に言わせると、日本の司法制度はヨーロッパの中世と大差が無いという。
刑務所は、昔は監獄と言われていたもので、刑務所と名を変えても実態は監獄と何も変わらない。
日本の刑務所は、塀の中に閉じ込められているだけではなく、檻房というコンクリートの厚い壁と鉄格子に囲まれた牢獄で過ごさなければならない。今年の夏は暑いと言われているが、刑務所の檻房には冷暖房は勿論扇風機すらもない。マスコミは危険な暑さなので冷房を等と言っているが、自然に任せた状態の中では人はけっこう強いものだと言うことを刑務所の囚人たちが教えてくれている。そうは言ってもこの過酷な暑さの中で扇風機もないというのはものすごく大変だし、辛いことは間違いのないことだろう。さらに、看守によって人間性も人権も全て無視された状態の中で、生きていくだけの最低限の食い物を与えられて命をつなぐだけの毎日を送るしかないところ。あんな所に何十年も入っていなければならないなんて、想像しただけでぞっとするのだが、馬鹿で甘やかされ放題甘やかされて育った人間には、殺人という重大な犯罪を犯してしまったら我が身にどのようなことが起こるのかと言ったことをイメージすることができないのだろう。しかし、実際に殺人犯と言うことで裁判の場で刑が確定してしまったら、どんなに泣こうがわめこうが恐ろしい現実が待っているのだ。要するに、他人を殺すと言うことは、自分の人生をも葬ってしまうも同然なのだが、こうした病的なまでに自己中心的な人間にとっては、損得や刑務所生活の惨めさや悲惨さなどを考えるよりも、怒りの感情が意識の全てを消し去ってしまうのだろう。まさに、野獣や野蛮人と同じで、利害得失も人間としての理性も何もかもが怒りの感情の爆発によって頭から消えてしまい、野獣のように相手の命を断つことでしか満足しなくなってしまうものらしい。

犯罪者の親は犯罪者にするために育ててきたつもりなど全くないのだろうが、この人は子供を犯罪者にしたいのかと思いたくなるような子育てをしている親を見ることはそう珍しいことではない。勿論、犯罪者にしたいのかと思えるような子育てをしたからと言って必ず子供が犯罪者になるわけではない。多くは普通に成人して、暴走行為や万引きなどと言った軽い犯罪程度は犯すかも知れないが、マスコミに大々的に取り上げられるような悪質きわまりない犯罪とは無縁の生活を営むのが普通だ。所が、おそらく、生まれ持ったものと育て方の両方が重なったときに、こういうとんでもない犯罪者となってマスコミを賑わすような残虐きわまりない罪を犯すようになるのだと思われる。

中略
「1番許せないのは私たち親が間抜けだったこと
さなを守れなかった
理解しがたい彼の娘への執着
度を超す愛情表現
監視し制限することにさえそうしてしまう気持ちにより添う努力をしながら何度も話し合ったことは無駄だった。
犯人にわかって貰おうなんて無理なことだったのにそれとわかっていなかった」

私も何度も犯罪者と話をしたことがあるが、その殆どが普通に話している限りは好人物なのだ。
それがなぜ暴走をしてしまうのかは、持って生まれたものと親の育て方があるとしか思えない。
この手の犯罪者に共通するのは、自分に対しては異常なまでに甘く、自分以外の人間に対してはものすごく厳しいというとんでもない性格の持ち主なのだ。
ま、誰しもが自分に対しては甘く、他人に対しては厳しいものだが、普通の人はその差はさほど大きくはないはず。特に、自分が好きな女の場合であれば、自分に対してよりも甘くなるのが普通なのではないだろうか。

最も問題なのは、多くの女はこの手の自己中心的な男が好きだと言うことだ。
一見したところとても好感度が高く、一見したところ優しそうに見える男。見た目もそう悪くはない。
しかし、つきあい始めればすぐに極めて危険性の高い性格だと言うことに気づくはずなのだが、なぜかその男から離れようとしない。これまでに殺されたり重傷を負った被害者の殆どが、何年もつきあっている。そして最後にはとんでもない結果と遭遇する羽目になるのだ。
こうした事件はもう数え切れないほど起きていて、その結果としてストーカー規制法などと言う法律までできているのだが、それでもこうした事件は後を絶たない。
言うまでもないことなのだが、こうした犯罪を犯す犯人が一番悪いに決まっている。ただ、もういい加減に気づいて貰っても良いのでは無いかと言うことを言いたくて、こうして書いている。
要するに、つきあい始めてすぐにわかるはずなのだ。この人は一見したところ優しそうに見えるが、とても粗暴な性格だと言うことに。そして、この人は自分に対してはものすごく甘いが、私に対してはとても厳しいと言うことに気がついたら、直ちにつきあうのを止めるべきなのだ。
今回の事件でも親が介入して本人と話し合ったと言うことが報道されているし、警察が親に警告めいたことを言ったと報道されている。しかし、相手の親に言うなんて、ばかげているも良いところだ。その親というのは、こうした自己中心的な人間を作った張本人なのだ。自分の息子がどういう性格の人間かは、親である本人が一番よく知っている。それなのに親に向かってあなたの子供はつきあっている娘に酷いことを言ったりしたりすると言ってみたところでどんな意味があるというのだろうか。親に言えば、子に対して的確で適切な対応をしてもらえるとでも思うのだろうか。もし、本気でそう思って親に伝えたのだとしたら、あまりにもナイーブすぎる。
子供と言ったところで、もう成人しているのだから、親が何を言ったところで聞くはずもないし、そのようなものすごく独善的な人間を作ってしまった人でもあることから、子供ととてもよく似た性格であることは疑う余地もない。当然のことながら、他人の言い分よりも可愛い我が子の言い分の方を重要視するに決まっているからだ。そして事件が起こったあとには、こういう親は必ずあの子はそんな子ではないという。このような人に向かって注意を喚起したり、子供のやっていることに対して何らかの対応を期待して訴えたり、要請をして見たところで、全く無意味だ。
私が親の責任を明言する理由に、昔はこのような人間は極めて少なかったと言うより殆どいなかった、と言うことがある。勿論、犯罪者自体は昔の方が多かったが、昔は本当に貧しくて食べるものにも事欠いて、それで犯罪に走るとか、酷い仕打ちを受けた恨みを晴らすためと言ったことによる犯罪が殆どで、このために動機がハッキリしていたことから警察も捜査がしやすかった。
昔の貧しい人々の生活がどのようなものだったかを知りたければ、林芙美子の「放浪記」を読めばわかる。放浪記は、林芙美子の自叙伝のようなもので、放浪記を読むとご飯が食べたいと言う切実なフレーズが頻繁に出てくる。
今は、当時とは比較にならない程に豊かになったことで、甘やかされるだけ甘やかされて育った子供が激増している。そうした甘やかされることが当たり前の環境で育った結果、ものすごく独善的になってしまい、つきあっていた女が別れるというと、それだけで別れを告げた女を殺してしまう。昔ならなんて女々しい奴だと言うことから、最も軽蔑された犯罪が、今では日常茶飯事になっている。
それにしても、危険な性格の人物だと知りながら、親に相談したり、警察に訴えると言うことまでしているのに、刑事手続きの段階になると、もう仲直りをしましたからなどと言って、うやむやにしてつきあいを続けるのはなぜなのか?
全く、理解しがたい言動なのだが、なぜ、警察に訴えざるを得ないような厳しい事態になっても、これを契機に別れようという気持ちにならないのか?
この遺族のコメントにもあるように、命がかかっているのだ。
悠長なことを考えていたら、この遺族と同じ運命が待っていることになる。
さらに、相手の男を殺人者にさせないためにも、相手が自己中心的な性格だと気がついたら、直ちに彼から離れ、2度と逢わないというのが最も良い解決方法なのだ。
まだ、つきあい始めたばかりなら、いくら独善的な男だとしても刃物を持ち出すなどと言うことにはならないはず。
何年も暴力を受け続け、酷い言葉で罵倒され続けるといった悲惨としか言いようのない仕打ちを受けながら、けんかをしては仲直りをし、極めて親密で濃厚なつきあいを続けたあげくに、もうこれ以上は無理という状態になってしまってから別れを切り出すから、自己中心的で自分に対しては病的なまでに甘く、自分以外の人間に対してはものすごく厳しいといった性格に火を付けることになってしまうのだ。
今回の事件の遺族の嘆きを見るに付け、もういい加減に同じことを繰り返して貰いたくない。

「悠長なことを伝えている場合ではなかった
家に入ってきたのがわかったときに躊躇無くすぐに通報すべきだった
彼の人生のことをなぜ考えたのだろう
逮捕されたら可哀想だなんてなぜ思ってしまったのだろう
甘かった 伝わらない
身勝手な解釈しかできない相手だったのに
激痛と恐怖
さながこの先得られたであろう幸せを一瞬にして奪われた
無念でしかない
これが夢だったら
時間が取り戻せたら
引っ越しをしていたら
危険な状況なことをもっとしっかり理解していたら」

今現在、危険なほどに自己中心的な性格の男とつきあっている人やその親族は、この遺族の嘆きを自分のこととして受け止めるべきだ。
この遺族と同じようなことを、これまでどれほど多くの人が言ってきたか知れない。
みんなこんな思いをするのは私たちが最後であってほしいというのだが、決して最後になることはない。
なぜなら、自分達が被害者になることはないと、実際にとんでもない事態に遭遇するまでは皆が思っているから。

ウクライナでの戦争について

テレビの番組で、ウクライナEUから100万発の砲弾を供与すると言っていたのだが、これに対してロシア軍は100万発など3ヶ月で使い切ってしまう、と軍事の専門家の人が言っていた。これを聞いて、ロシアというのはそれほどの国なのか?と言う疑問が湧いた。なぜなら、ロシアの経済力は韓国よりも劣るとされているのだが、韓国はロシアの3分の1しか人口がいない。韓国のような国も小さくて存在感もさほど無い国よりもロシアのGDPは低いのだ。そんな経済力の低い国が100万発の砲弾を3ヶ月で使い切ってしまうと言うのは信じがたい。ま、ロシアは軍事大国でもあるので、軍事にかける予算が日本などとは比較にならないほどに多いことから、これまで長年にわたって備蓄していた弾薬が大量にあったので、と言うことなのかも知れない。ネットで見ると、砲弾というのは1発30万円位から100万円位まであるようなのだが、仮に1発100万円だとすると100万発と言うことは1兆円と言うことになるのだが、戦争には砲弾だけではなく銃弾もミサイルも戦車や装甲車などの様々な戦争を遂行するための装備なども必要になるし、兵士の給料も支払わなければならないというのに、韓国程度の経済力しか無い国が3ヶ月で100万発も砲弾を撃つと言うことを続けることが可能なのか?
最近では北朝鮮などから砲弾などを買い集めているという話もあることから、備蓄は底をつき、自国の生産では間に合わなくなっていると言うことのようなのだが、備蓄がたっぷりあった頃には3ヶ月で100万発などと言うことも可能だったのかも知れない。でも、最近では備蓄が底をついてしまったために、他国から融通して貰わないと最前線での要求に応じられないという状態になっている。プリゴジンが弾薬が全く足りていないと言って軍の中枢にいる者どもを罵倒していたことからも、ロシア軍は弾薬が足りていないと言う状態になっているものと思われる。
思うように弾薬を調達できなくなったからこそ、開戦時のような勢いは失われ、今や前線を保持するのが精一杯という状態になっているのだろう。
私個人としては昨年の今頃には確かに猛烈な勢いで次々にミサイルや砲弾をウクライナの戦場だけではなく市街地や住宅地にまでも撃ち込んでいたが、全く非人道的でほんとうにロシア人というのは野蛮人そのものだと思ってみていたものだった。住宅地の集合住宅にミサイルを撃ち込んだら、そこに住んでいる大勢の市民が死ぬに決まっているわけで、その中には女子供もたくさんいるのだが、ロシアの野蛮人にとってはウクライナの人がどれほど殺されようが気にもならないらしい。むしろ、人が集まる駅やスーパーマーケット、レストランと言ったところを狙ってミサイルを撃ち込んでいることから、ロシア軍の考えとしては、1人でも多くのウクライナ人を殺してしまいたいと思っているらしい。
まさに、19世紀の皇帝が行っていたことを21世紀の今も、当時と全く同じことをやろうとしている。しかし、19世紀の軍事能力と今とでは破壊力は桁違いだというのに、ロシア人の多くの愚かな民衆は19世紀の頭と何も変わってはいない。
この戦争をマスコミはプーチンの戦争と言うが、この表現は完全に間違っている。プーチン政権は、ロシアの圧倒的多数の愚かな民衆が言ってほしいと思っていること、聞きたいと思っていることを言っているのであって、プーチンは愚かな民衆が望んでいることをしているだけのことなのだ。だから、例えプーチンが今急死したとしても、事態は殆ど何も変わらないと言われている。むしろ、より急進的な考えの人物。メドベージェフのような人物だが、彼は自身のSNSに「私が生きている限り、彼らを消滅させるためには何でもする」と書き込んでいるような男だ。 
かつてスターリンウクライナに住んでいる人々を狩り集めて全てシベリアに送ろうとした。しかし、数千万人の人間の輸送をウクライナからはるばる遠方のシベリアにまでというプロジェクトを実行するには、あまりにも費用がかかりすぎると言うことで断念したということがあった。ロシア人にとっては、ウクライナのような平坦で肥沃な土地にウクライナ人が住んでいるのは我慢がならないので、メドベージェフのようにできれば全ての人を殺すかどこかに逃げるかして、消し去ってしまいたいと思っていることは確実なのだが、ロシア人以外の人間にしてみたら、一体ウクライナ人が何をしたというのかと言いたくなる。ウクライナ人はロシア人によって迫害を受け続けてきたのであって、むしろウクライナ人はロシア人に恨みがあったとしてもロシア人に恨まれる筋合いはないのだが、大国意識に凝り固まったロシア人にとっては自分達に奴属するのなら良いが、反抗するのなら許さんという19世紀的な発想にとらわれているらしい。それにしても21世紀の今に至っても、19世紀の野蛮な考えにとりつかれているというのは異常としか言いようがないし、こんな考えを実現させては絶対にいけないのだ。

昨年の今頃に思ったのは、ロシア軍が好き勝手にウクライナで虐殺行為を行っているが、これほどまでに激しい砲撃やミサイル攻撃を続けていたら、いつかは砲弾もミサイルも在庫がなくなるだろう。ミサイルの在庫がなくなる時期は多少遅いか速いかはあっても、必ずそうした日は近いうちに来るのだが、そうした自覚が狂ったように砲弾やミサイル攻撃を行っている野蛮人の頭にあるのかが大きな疑問だった。
ロシアの軍部の中枢にいる者に多少なりとも頭があるのなら、勝つためにはどうするかと言った戦略的なことを考えるものの筈だが、そうした戦術と言ったものが全く感じられない。むやみやたらにミサイルを市街地や高層住宅に撃ち続けて無抵抗の一般人の家を破壊し、そこに住んでいる人々を殺すことは彼らにとっては快感なのかも知れないが、とんでもない量の砲弾とミサイルを撃ち込み続けていれば多くの人々を殺すことはできたとしても、数千万人ものウクライナ人の全てを殺すことなどできる筈も無い。逆に、戦争なんて嫌だと言っていた若者の心を奮い立たせることになる。
ただ、むやみやたらとミサイル攻撃を一般人が住む地域に打ち込んで、街を廃墟にしたところでウクライナ人の怒りを買うだけのことでしかなく、戦争に勝つための戦略とはかけ離れているとしか思えない。こうした勝つための戦略を軍部の中枢にいる者が理解し、ミサイルなどの攻撃用武器を効果的に使って戦いを有利にしていくといった軍事的な作戦遂行能力が極めて貧弱だとしか言いようがない。
ま、シリアやチェチェンではこうした都市全体を爆撃によって破壊し尽くし、大量の市民を殺すというやりかたが功を奏したのだが、シリアもチェチェンイスラムだ。アメリカ軍がシリアに入って、多額の資金を投じてシリア人を集めて軍事訓練などをやったり、高性能の武器を与えたりしたのだが、いつの間にかみんないなくなってしまう。こうしたずるくて腰抜けが圧倒的多数という国では、ミサイル攻撃によって都市を廃墟同然にするというやり方は効果があったのかも知れないが、ウクライナ人はイスラムではない。
ロシアがウクライナに侵攻してきた直後には、NATOの国々もシリアのようになるのではないか?と思っていたようなのだが、ウクライナの人たちは俺たちは腰抜けではないという気概を見せたことから、これは援助のしがいがあると言うことになって、NATOからの援助の規模がどんどん大きくなっていった。その結果完全にロシア人の思惑は外れ、戦いに勝つ見込みがなくなってしまったのだ。
もし、最初の半年位はNATOからの武器の援助もたいしたことが無かったので、あのときに住宅地にミサイルや砲弾を撃ち込むと言った戦略的には無意味なことをしていないで、ウクライナ軍の陣地に向けて集中攻撃をやっていたらあるいはということも考えられたが、ロシア軍はシリアやチェチェンでの結果に勝ちの夢を重ねていたとしか思えない。そうした戦略とはほど遠い無意味な攻撃を続けたことによって、NATOからの援助が間に合うことになってしまい、もはや勝てる見込みはなくなり、ひたすら占領した地域を防御するだけといった惨めな状況になってしまったのだ。まさに、日露戦争と同じで傲慢が墓穴を掘ることになり、こうしたことがプリゴジンの反乱という茶番まで引き起こすことになったのだと思われる。

日露戦争でも軍備の面でも戦力の面でも圧倒的にロシアの方が有利だったにもかかわらず、日本軍との戦いでは旅順で負けに負け、その後も負け続けるということがあったし、独ソ戦でもロシアが勝てたのは自然現象によるものであって、ロシアの厳冬期に対する対策がドイツ軍に不足していたから寒さによって兵士がまともに戦えなくなってしまい、ドイツ軍が敗退したのであって、ロシア軍が強かったからではない。
その後に起きたアフガンの戦いでもロシアは勝つことができなかった。
1対1の戦いでは、ロシア軍は歴史を振り返ってみればすぐにわかることなのだが、とても強いと言えるような状況では無かったのに、そのことを全く学習していないな、という感じを持って見ていたものだった。

とにかく、アメリカのような軍需産業が世界一発達している国でさえウクライナへ砲弾を送り続けているうちに、砲弾が足りなくなってきてしまい、日本や韓国に砲弾を回してくれるように要請しているという話もある位なのだ。ウクライナはG7という最も裕福な国がバックについているというのに、それでもロシアと比べると弾薬の使用量が桁違いに少ないとされているわけで、逆に言うとロシアの野蛮人は後先考えないでミサイルや砲弾をまるで無尽蔵にあるかのような勢いで使い続けてきていたのだが、今年に入ってついに備蓄が底をついたと思われる状況になっている。ロシアにはG7のような国はないので、弾薬や自爆ドローンを確保するには自国での生産は言うまでもないが、自国の生産で間に合わない部分については、お金を出して北朝鮮やイランなどから買ってこなければならない。元々たいして裕福でもない国なのに、先進国から経済制裁を受けているという大きな重荷を抱えながら巨額の軍事費を注ぎ込んで、戦いに必要な武器や弾薬を確保し続けなければならないのだ。勿論弾薬だけではなく、半導体も闇のルートで買わなければならない。中国からの闇ルートが指摘されているが、中国国内で最先端の半導体を買おうとすると、通常の2倍の価格になる。中国は欧米や日本から軍事転用が可能な半導体の輸入制限を受けているからだが、こうしたものをロシアが手に入れようとすると、足下を見られるので2倍では無理で、数倍の価格で買う羽目になる。中国にある物自体が正規の取引で手に入れたものでは無いので、当然買える量は限られている。このためにロシアの周辺の国々から密売という形で手に入れなければならない。そうした手に入りにくい物をようやく手に入れて、半導体を使ってミサイルなどを作っても、あっという間に血に飢えた戦闘員によってミサイルはウクライナの上空に消えて無くなってしまうのだ。
とにかく、プーチンが軍需工場を回ってハッパをかけても、いくら気合いを入れて戦車や装甲車などを作ってもすぐに破壊されたりしてなくなってしまう。北朝鮮やイランなどから泣け根無しの外貨を使って弾薬などを購入しても、すぐに最前線では使い切ってしまう。こうした軍需物資を作ったり兵器を買ったりするには莫大な資金が必要になるのだが、いったいいつまで資金が続くのかがロシアにとっての大きなアキレス腱だろう。
一方でウクライナはG7からの援助で、殆どお金を出さないで弾薬や戦車、ミサイルなどの高額な武器などを手に入れることができている。この差はとんでもなく大きいのではないのか。専門家の人たちは、この戦いはマラソンだとか長引くと言っているが、そんなに長くロシアは戦闘能力を保持し続けることができるのか?
ロシアが確実に外貨を手に入れることができるのは原油天然ガスだけだが、天然ガスはドイツなどの最もお得意さまであったはずの国を敵に回してしまったために、中国しか買ってもらえないという状態になっている。ロシアのガスは、パイプラインで送るのがメインだからだ。原油については、ロシア経済としては戦争がない平常状態でも1バレル70ドル以上で無いとやっていけないと言われている。所が、今はWTIの価格が70ドル前後で取引がなされている。しかし、ロシアは先進国から経済制裁を受けているので、原油を2割から3割ほど安く買いたたかれているという状態だ。3割引では50ドルにしかならない。こんな状態でどうやって膨大な戦費を賄い続けるというのだろうか?
今でも多くのロシアの若者が国を出て行ってしまい、様々な分野で人が足りないという状況になっている。軍事物資を作るための人材すらも足りていないという状態だというのだ。しかも、今現在ウクライナの大攻勢で、両軍の兵士が大量に死傷しているという状況だ。これで、また兵士が足りなくなったので、兵士が必要だと言って強制的に集めるなどと言うことをしたら、残っている多くの若者が逃げ出してしまい、日々の生活に必要な物資を生産する人材も足りないと言う状況が加速し、ロシア経済は大混乱になることは確実だ。要するに、マスコミに登場してくる軍事専門家が言うほどそんなに長い間ロシアは戦争を続けられないのではないかと言うことがある。
私は、専門家の人が言うほどに何年も戦争が続くとは思えない。太平洋戦争時の日本のように、経済が壊滅状態になっても戦争を続けることができるのか?戦死者が山ほど出ても勝つまではなどと言い続け、民衆がそれに従うのか。ロシア人は日本人ほど馬鹿では無いし、日本人ほど胆力が座っていないと思う。また、太平洋戦争時と違い、今はインターネットで情報が入って来るからなおのことだ。ロシア政府がプロパガンダをいくら流し続けて、愚かな一般大衆が政府のプロパガンダを信じ続けていたとしても、若者の場合にはロシアの外にいる友達などからいくらでも情報が入ってきてしまう。中高年の愚かな民衆が政府からのプロパガンダを盲目的に信じ込んでいたとしても、経済が壊滅状態になり、戦死者が目に見えて多くなれば、ロシア国内で反乱が起きるのではないか。もうすでにウクライナ側に立ってロシア領内に攻撃を加えている者どもがいるが、こうした勢力に加わる者がロシア国内で激増するのではないか。従って、今年中は何とかがんばれたとしても、来年はもうロシアは戦争遂行能力がなくなっていくのではないかと個人的には思っている。

考えてみれば、100年以上も前に起きた日露戦争の時もロシアは武力でも戦闘員の数でも圧倒的に勝(まさ)っていたはずなのに、日本という当時は貧しくて大型の軍艦も武器も買えないというようなちっぽけな国に負けたのだ。その原因については、様々な理由が言われてはいるが、一番大きな要因はロシアが世界中から嫌われていたことにある。嘘つきで、約束を守らない国だと言うことから世界中から嫌われていたことが、バルチック艦隊の敗北に繋がった。
バルチック艦隊が壊滅したことで、日本という島国に攻め込む手段も手立てもなくなってしまい、これ以上戦争を続ける意義も意味も失ってしまった。ロシアの戦争目的としては、日本を植民地にすることで真冬でも凍らない軍港を手に入れたいと言うことがあったはずだが、軍艦が1隻もないのでは日本に攻め入る手段が皆無だ。
しかしながら、ロシアとしては日本に負けたわけではない。日本に攻め入る手段がなくなったので戦争を止めるしか無くなっただけなのであって、ロシア領に日本軍が侵攻してきたために降伏するしかないというような状況ではない。従って、負けたという意識はロシア側にはなかった。このために、日本が要求する戦後賠償は一方的にはねつけて、全く賠償を行おうとしなかった。このあたりのことを理解する頭のない日本の馬鹿マスコミが、いつものように巨額の賠償金の要求をするべきだと言ってあおり立てたものだから、戦後の対応については愚かな民衆が騒ぎ立てたと言うことがあった。要するに、現実を見ないという点では今のロシアの民衆と同じなのだ。

バルチック艦隊は、ヨーロッパからアフリカの喜望峰を回ってアジアの端に向かうというとんでもない長距離の遠洋航路を行ったのだが、この長い航路の間援助の手をさしのべてくれたのはドイツだけだった。ドイツの皇帝とロシアの皇帝が仲が良かったからなのだが、哀しいことにアフリカの殆どをイギリスとフランスが植民地にしていた。イギリスは日本と軍事同盟を結んでいたので問題外だが、フランスも自国の植民地の港にバルチック艦隊が入港することを認めてくれなかった。フランスの植民地の港に入ろうとすると、入港を拒否され、直ちに出て行くようにと追い立てられた。フランスとロシアは軍事同盟を結んでいたのに、フランスの植民地に近づくことも認めようとしなかったのだ。おそらく、イギリスはフランスに向かってイギリスとロシアのどちらにつくのかと問われたのだろう。これに対してロシアと軍事同盟を結んでいるからロシアに、とは言えなかったものとみえる。あんな約束を守らない嘘つきと一緒になるのか、と言われたくなかったのだろう。その結果、バルチック艦隊はヨーロッパから日本海までまともな港に入って休養することができないままはるばると地球を半周する距離を経て日本海まで来たのだ。
しかも、当時の船は石炭を燃料として動いていたので、アフリカ大陸を回って来る間に何度も兵隊たちは、かんかん照りの中を熱波にさらされながら重い石炭の積み込みを、港でなくドイツが手配してくれた石炭を積んだ小さな船から揺れる外洋の中で背の高い軍艦まで石炭を運び込むという重労働を行わなければならなかった。まさに、下っ端の兵士にとっては、不満たらたらの状態で日本海に入ってきたのだ。さらに、船という物は何ヶ月も海に浮かんでいると、海藻や貝などが船底に付着する。こうしたものが付着したままでは船のスピードが落ちてしまうので、定期的に港に入って付着物を落とさなければならないのだが、アジアも殆どがイギリスとフランスの植民地ばかりなので、港に入港して船員の休息をかねて船の付着物を落とすと言うことをしたかったのに、それができなかったのだ。
こうした状況があったために、ロシアの兵士は不満と疲労を抱えるだけ抱えた状態で日本海に入ってきたのに対して、日本軍はイギリスから最も上等の無煙炭という煙があまり出ない上に火力が強いという軍艦にとっては最高の石炭を譲り受け、兵員も休養たっぷりという状態だったのだ。こんな状況でロシアが勝つなんて、後から考えたらあり得ないことだったのだが、ロシアという大国が日本のようなちっぽけな国に負けるはずがないと世界中の人が思っていた。勿論、ロシア人はもっとはるかに自信を持っていた筈だし、バルチック艦隊の乗組員たちもそう思っていたに違いない。完全に日本という国を見くびっていたので、遠洋航海の途中で砲撃の練習をすると言ったことは殆ど無かった。逆に、日本はこの戦いに負けたら確実にロシアの植民地になってしまうと言うことから、必死の思いで砲撃の練習を続けていたのだ。こうしたことを知った上で現実に起こったことを見ると、当然の結果かなと思うしかない。まさに、イメージと実態が、これほどまでにかけ離れた海戦も少ないのではないか。
砲撃の練習など殆どやらないまま相手をなめきって戦闘に突入したロシア艦隊。こうした傲慢な態度の結果はすぐに現れた。人によっては海戦30分で勝負がついたと言われるほどで、世界に名をとどろかせたバルチック艦隊は日本艦隊に一方的にやられっぱなしの状態になり、朝もやに包まれた中で始まった戦闘は、日暮れには完全に決着がついてしまっていた。ロシアの軍艦でまともに戦える物は日が暮れる頃には無くなり、殆どが大破し沈没したか沈没していない物はただ浮かんでいるだけの状態になり、酷い損害を受けていないものは、フィリピンに逃亡してしまった。当時のフィリピンはアメリカの植民地だったので、フィリピンに逃げ込んだロシアの軍艦は、アメリカ軍によって直ちに武装解除を命じられ、何の役にも立たない船になってしまった。
なぜ、このようなことになったのかは、言うまでもない。嘘ばかりをついて約束を守らない。どんな恥知らずの嘘やばかげたいいわけも平然と言い放つ。こうしたロシア人の性格というか体質は、皇帝の時代から共産党の時代になってもプーチンの時代になっても何も変わることが無いままなのだ。
今回のウクライナの侵攻についても、ウクライナに攻め込むような国があったら結束して守ると、ロシアとアメリカ、それにイギリスがブダペストで覚え書き作って世界に向けて約束したのにもかかわらず、今回平然と約束を破ってウクライナに軍事侵略を始めた。その言い訳が西側が攻めてきたからだというのだが、こんな見え透いた子供でも恥ずかしくて口に出せないような大嘘を堂々と言えるのは、世界でもロシア人だけだろう。
共産党時代には、日本と不可侵条約を結んでいたのに、太平洋戦争で日本の負けが誰の目にも明らかになると、不可侵条約を破って日本軍に攻撃を仕掛けてきた。皇帝の治世にあろうと共産党の治世にあろうとロシア人はロシア人なのであって何も変わらない。彼らは、息を吐くように嘘を言い、約束を踏みにじる。彼らロシア人にとっては、どのような時代になろうが病的なまでの大嘘つきという本質は何も変わらないのだと言うことを、いつの時代にも実際の行動で教えてくれている。

好きな画家と美術館

お題「好きな画家は?行ってよかった・おすすめの美術館のエピソード」

上記のお題を見たので書いてみるが、好きな画家はレンブラント、それにフェルメールかな。他には、ドラクロアとかゴヤとかいろいろとあるが、好みは人それぞれだろう。

お勧めの美術館は、ルーブル美術館オルセー美術館

ルーブル美術館はあまりにも広大うえに通路が入り組んでいるので、最初は自分がどこにいるかすぐにわからなくなってしまう。

だいたい3日か4日ぐらい通ってようやく自分が今どのあたりにいるのかが把握できるようになったものだった。

それなのに、美術館の入り口の所には、日本人のツアーの人たちがたくさん集まっていて、ガイドの若い女がまるで幼い子供に訓戒を垂れるかのような口調で、皆さん30分ですよ!30分経ったら必ずここに戻って来てください。いいですね!等と言ってどなっている。ガイドの女から訓戒を受けたおじさんおばさんたちが美術館の中に入っていくと、別のガイドが立ち現れて、先程とは違う集団に向かって同じような訓戒を述べ始める。

ガイドが持った旗の後ろにくっついてぞろぞろと歩く姿は、保母が園児を引率する様子そのままだ。

たくさんの白人たちが入り口の脇で、このようすを物珍しそうに眺めているのだが、見ているこちらが気恥ずかしくなってきたものだった。

次から次へと現れる団体の殆ど全てが日本人だったからだが、こうした日本人のグループがひっきりなしに現れて切りが無いと言う状態だった。

それにしても、あの広大なルーブル美術館をたった30分で見て回るなんて、不可能としか言いようがないのだが、彼らにしてみれば、それこそ迷子になったら一緒にツアーに参加している人々全員に迷惑をかけることになると言うことから、入り口の周辺をうろうろして終わりだろう。それでルーブル美術館に行ったと言えるのかと思うが、入り口あたりで美術館を背景にした写真を撮れば、それでルーブル美術館を見たと言うことになるのだろう。

私がパリに行った頃は円高だったので、パリの物価はなんて安いんだろうと思っていたものだったが、たくさんのツアーに参加していたおじさんやおばさんたちも同じ考えでパリ旅行に来ていたのだろう。

でも、今は自民党政権による円安政策によって円の価値がなくなってしまったので、パリに長期間滞在して美術館巡りをするなんて不可能に近い。今行ったら、あの頃の3倍以上の旅費がかかることは確実だからだ。 

子供について

子供を産まなくて良かったという人の書いた記事を見たのだが、年を取っても健康でいつまでも一人で何でもできるという前提での話だと思う。

しかし、多くの人は健康で長生きできて、死の直前まで人の世話を受けないで生涯を終えるのは難しい。特に、女性は健康寿命と死を迎えたときの年齢に大きな差がある。これは多くの人が長年にわたって、親族もしくは他人からの介護を受けるという意味でもある。

日本という国は、税金や社会保険料などでその多くを国などに強制的に納めることを強要されているのだが、その割に北欧などと比べると介護の現場は富裕層を別にすれば、貧弱この上ない。北欧に近い多額の税金や社会保険料を納めていながら、北欧とは比べるべくもないひどさだからだ。

以前は、日本は国などに納めている税金などの金額が北欧とは比べものにならないほどに少ないから、と言われ続けていたのだが、近年では北欧と日本での納める金額の割合が大差なくなってきている。それなのに受ける恩恵は驚くほどに違っているのだが、多くの日本国民はこうした政策を行っている政府を指示し、受け入れ続けているのだから、政府もこのままで良いと思っているのだろう。彼ら政府の議員や役人どもは税金によって巨額な年収が保証され、仕事を辞めたあとの年金も庶民とは別会計でしっかりと老後は保障されているので、愚かな民衆などどうなろうが知ったことでは無いというか、気にもかけていないというのが本当のところなのではないか。

しばらく前に、朝日新聞が介護の現場を取材し、記事に書いたことがあったが、その後にその記事を本にまとめた。たまたま私はその本を持っている。

十分な金銭的な蓄えのない人が老齢になり、糖尿病による合併症や脳梗塞などを発症した場合、どんな悲惨な状況が待っているかだ。子供が居て、子供が優しい子で、親の面倒を親身になってみてくれると言うことであればまだしもだが、そうで無い場合。金銭的な蓄えもたいしてないし、子供もいないと言った場合は悲惨としか言いようのない状況が待っている。

子供を産まなくて良かったという人は、日本は先進国なので国や地方が最後には面倒を見てくれるだろう、と甘く考えているようなのだが、この国の現実はそう甘くはないのだ。

有料の老人ホームに入れるような裕福な人は別だが、そうした施設に入るにはとんでもない高額な費用が必要となるし、月々の費用も想像以上にかかる。

このために多くは特養と呼ばれる施設を希望するのだが、特養に入ることができればさほどの費用もかからずにそこそこの介護を受けることが可能だ。所が、特養への入居を希望する人が多すぎて入居は困難を極める。数年待たされるというのは普通で、場合によっては十年以上もと言う所もあって、殆ど現実的ではないという状況だ。

不幸にも脳梗塞のような身体に障害を伴うような病気になり、病院に入院した場合、身体が不自由なままであったとしても数ヶ月もすると退院を強要されることになるが、介護が必要と言うことになると、多くの施設では受け入れを拒否されることになる。

この辺が北欧と日本では全く違う。先進国と途上国ほどの違いだ。

途上国の人々は、こうした状況がわかっている。国に期待しても無駄だと言うことは常識として知っているので、生活がいかに苦しくても子供を多く生むことによって老後の支えになってもらおうとするのだ。かつての日本でも多くの子供を産むことで、老後の安寧を望んだのだった。

しかしながら、近年は子供に老後を託すという考えがなくなり、自分達で何とかしようという気風が生まれてきた。勿論、役所勤めを長年続けていたとか、一流企業で長年働いていたために年金だけでもなんとかなるし、金銭的な蓄えも十分あると言った自分達で何とかなるものなら、それも立派な選択肢のひとつなのだが、日本は税金の殆どを政治屋を含めた役人たちが懐にし、残りを庶民に回すと言うことを明治以降延々と続けてきたので、北欧のような全ての人が日本の有料の老人ホームのようなところで介護を受けられるわけではない。

では、身体の自由を奪うような深刻な病気に罹ってしまったことによって仕事を失い、収入が無くなってしまった人々が、病気によって介護がないと生活ができなくなってしまったといった場合、どのような状況に置かれることになるのか。

朝日新聞が出版した本には、その悲惨な実態が描かれている。

「老人たちは分厚い布団にくるまり、頭だけを出して目をつぶっている。そこには60代から百歳近い男女10人が同じ部屋に雑魚寝状態で横になっていた。

部屋の中を見渡すと、夜間にトイレに行くための通路になっている部分の畳に大きなシミがついている。汚物を吐いたあとだという。畳はあちこちすり切れていて、ガムテープで補修してある。経営者に畳の取り替えを頼んでも取り替えてくれないのだという。

職員が言う。

男女が一緒なので、気づいたら女性の布団に潜り込んでいる男性もいます。

ここは埼玉県東部の住宅街にある築40年近い2階建ての一軒家だ。最寄り駅から歩くと1時間近く懸かる。外観は普通の民家と変わらないが、中に入れてもらうと1階の3つの部屋が襖が取り払われて、20畳の広さになった部屋を取り囲むように、簡易ベッド、ソファーベッド、布団が数珠つなぎになっている。掛け布団の柄も水玉模様あり、縦縞ありとバラバラだ。せめて、別々の部屋で寝かせられないのだろうかと思うが、職員に聞くと、部屋を仕切ると、それぞれの部屋に収まるように寝具を並べなければならない。そうなると10人を寝かせるスペースを確保することが難しいという。

この民家は、東京の介護サービス会社が借り上げて、日中は高齢者が通うディサービスとして使っている。最近では住宅街でも時々見かける介護施設だ。しかし、夕方に帰る利用者は少ない。彼らはそのままこの民家にお泊まりをするので、お泊まりディと呼ばれている。

この施設では2014年1月末、男性の一人がノロウィルスによる感染性胃腸炎になり、救急車で運ばれた。病院は点滴などをしたが、入院を認めない。男性は施設に戻されたが、隔離する部屋がない。その部屋で吐く。結局、他の高齢者5人や職員まで感染してしまった。

いくら部屋を3つつなげても10人が寝るには狭い。部屋に入ると右手の足下に寝ている老人の頭があった。左手側には食卓テーブルがあって職員が電気スタンドで手元を照らしながら書類に記録を付けている。日中は食事をしたりテレビを見たりする場所だ。そのテーブルの奥には簡易ベッドが1台あり、布団も2枚敷いてある。天井や壁には洗濯したタオルがつるされ、壁にはコートやジャンパーが無造作に掛かっていた。

老人たちは夕食を午後6時に摂り、6時半には歯磨きをすませる。7時位には床につく人もいる。夜勤の職員は1人で、2時間おきに様子を見る。起床は6時で、朝食は7時と規則正しい生活だが、すし詰めの団体生活でストレスはたまらないのだろうか。

こんな環境の中でずっと泊まり続けている老人もいる。1ヶ月泊まって食事をすると、介護保険の自己負担を含めて月に10万円以上だと言うが、国民年金は満額でも月に6万5千円程度なので、10万円をだすことができる老人は、比較的お金を出すことができる人たちとも言える。日本の老後はこんなに貧しいのか。医療にしても、介護にしても老人の負担は増える一方だ。自分が老人になったときにはもっと酷い環境で暮らすことになりかねない。暗澹とした気持ちになって施設をあとにした。」

これを読んだ人は、これは特別な事例だと思うかも知れないが、本に書かれているものを全てここに書くわけにはいかないので、1カ所の例しか書かなかったが、この本にはこうした悲惨な事例がどっさりと載っている。

こうしたところに住んでいる人というのは、自由にトイレに行けない人が殆どだ。夜の間は職員はトイレの面倒を見てくれない。夜の間はおむつか寝ている脇に置かれたバケツのような物に排泄するしかないのだ。当然のことながら、部屋全体に汚物の臭いが立ちこめることになる。

多くの若者は、自分はこんな所に入ることはないと思っているだろうが、取材した記者が最後に書いている。自分が老人になったときにはもっと酷いところで終末期を迎える可能性が高いと。残念ながら、彼の言うとおりだろう。

最近の若者の多くが子供を生まないし、産んでも1人か2人なのだから、当然、老人を世話する施設にかかる資金は減る一方だ。しかも、人口が減れば介護に従事する人も減ることが十分すぎるほどに予想される。言うまでもないことだが、老いた他人の下の世話を安い給料でやってくれる人なんて、人口が減って他に仕事がいくらでもあるという状況下では、誰が好きこのんでやりたがるだろう。北欧のように、介護施設で働く人は日本では考えられないような好待遇を受けているということであればまだしもだが、日本の現状を考えると今より悪くなることはあっても、良くなることは考えにくい。

こうした少子化による人口減少の悪影響を少しでも軽減するには、日本人の自助努力では不可能なことはわかっているのだから、残された方法は日本に住む外国人を増やすしかないのだが、愚かで何を考えているのかよくわからない自民党の者どもや法務省の役人どもは、せっかく日本に慣れ、仕事も習得した外国籍の人を強制的に母国に帰そうとする。または、母国で迫害を受けて日本に逃れてきた人たちを強制的に母国に送り返そうとする。彼らが日本に残って仕事を続けたいと言っているのに、それは絶対にだめなのだという。たくさんの人が収容施設に囚われの身になっているが、当然こうしたことには莫大な税金が使われている。

人口が減って将来的にも大変だというのに、役人どもは自分達には関係が無いという態度をあからさまに表明しているのだが、一体彼らの頭には何が入っているのかと思わざるを得ない。せっかく日本が好きで、日本に住み続けて仕事を続けたいと言っている人に対して、強制的に追い出そうとする。こうしたことは国際的にも非難され続けているのに、政府や関係する役人どもは気にもかけていないようなのだ。

日本では多くの女が年収500万円以上で無いと結婚対象にはならないと思っていることも少子化の大きな要因なのだが、テレビで結婚の話が出ると必ず年収500万円以上の男ということが問題になる。先日も少子化問題と言うことでテレビ番組で取り上げられていたのだが、結婚相談所に来ている男が女にあうこともできない。書類の段階で、結婚相手と見なされていないようなのだが、と係の人に訴えていた。係の人は、あなたの年収は300万円台なので、年収500万円以上ないと難しいと言われていた。これは結婚相談所に申し込む多くの女たちが書類の相手の男に対する要望の項目に、年収500万円以上と書き込んでいることを知っているからなのだろう。しかし、普通に考えればすぐにわかることだが、年収500万円以上の独身の男なんてそうはいない。まさに、多くの女たちにとっては人とではなくお金と結婚すると言っているようなものなのだが、そんな現実離れをした望みに叶う男は極めて少ないわけで、こうした現実とはかけ離れた要求をする女が殆どということであることが少子化の大きなネックになっていることは間違いのないことだろう。そうであるのなら、国外から女を呼び寄せたらどうかと思うのだ。10歳代から30歳代までの独身の女は無条件で日本に住んで働くことができるとしたら、東南アジア諸国から喜んで日本にくる者がいるのではないかとは思うが、それではあまりにもあからさま過ぎると言うことであるのなら、せめて介護などで来日し、何年も日本に住んでいる女たちを期限が来たから母国に帰すなどと言う馬鹿丸出しのことをなぜするのかと言うことがある。介護の現場でもようやく仕事に慣れてきたところで帰されたのでは本当に困ると言っているのに、馬鹿な政治屋や役人どもはなぜか外国人を日本に置いておきたがらない。異次元の少子化対策と言ったところで、女たちの多くが年収500万円以上の男でないと嫌だと思っているのに、小手先で少しばかりのお金を出すからと言って、彼女たちが結婚して子供を産むとでも思っているのだろうか。それよりも外国人の女たちを日本にとどめておいた方がよほど現実的だと思うのだが、特権階級でのさばっている輩どもには、少子化なんて自分とは関係ないし、どうでも良い。マスコミなどが少子化と言って騒ぐので、口先だけで体裁を整えているだけのことだ、と思っているとしか思えない。

閑話休題

さらに、誰しもが年を取ってくると様々な病気で入院することが多くなるが、親子であれば日中何時間もベッドのそばに座って、面倒を見たり話し相手になったりしてくれるといったことがあるが、友達では見舞いに来たとしても10分か20分でお帰りになってしまう。

一人ぽつねんとベッドに横になっていると、隣のベッドでは息子の嫁さんと思われる女が老人の世話を焼く声が聞こえてきたりするのだ。そして、こうしたことは必ずそう遠くない時期に訪れるのだが、そうしたときになって一人寂しく涙を流しても遅いのだ。

こうした現実を見たあとでも、子供を産まない人たちは、子供を産まなくて良かったと思うだろうか?

日経の記事に以下のようなことが載っていた。

今の子供を産まないと公言している若者たちが、中高年になった頃の話だ。

朝日新聞に載っていた今の介護を受けている多くの老人の生活は、とんでもないものが多いとは言え、まだ介護をしてくれる人がいるだけましなのかも知れない。

「人口が1億人を割る2056年の日本は、3750万人が65歳以上になる。成人の18歳から64歳までは5046万人で、1.3人の現役が1人の高齢者を支える未曽有の高齢化社会がやってくる。介護が必要な人は50年度に941万人に膨らみ、介護をする人は4割も足らなくなる...」

介護をしてくれる人が4割も足らないと言うことは、身体が不自由になり、トイレにも一人では行けなくなったとしても、誰も何もしてくれないという状況に追い込まれる可能性が高い。

まあ、結婚して子供を産もうとしたが、子供が生まれなかったという人や女にもてなくて、結婚したかったができなかったという人も少なくないだろう。そういう人は同情に値するが、子供を産まなくて良かったなどというような人は、どのような悲惨な状況の老後を過ごす羽目になったとしても、同情の余地はない。

途上国や日本の昔の人々が、今の日本よりもはるかに貧しかったのに、5人6人の子供を産むのはあたりまえ、10人以上の子供を産んでいる人も珍しくなかったのはなぜかを考えたことが無いというのは、驚きとしか言いようがない。

フィリピン人がフェースブックに写真を載せていたのを見たことがあるが、明らかにバラックとしか言いようのない家の床に、大学生の娘から生まれて間もない男の子まで10人以上もの子供たちが雑魚寝状態で寝ていた。

写真をアップしたのは大学生の娘なのだが、彼女の学費などはどうしているのかと思ったものだが、勿論バラックに住んでいるような親が出せるはずがない。親はたくさんの子供たちの衣食住といった基本的な生活費を工面するだけで精一杯の筈だからで、おそらく、彼女自身が何らかの方法で学費などを工面しているのだろう。

日本でも昔は貧しいのに子だくさんがあたりまえだったために、みんな様々な工夫をして学費などを工面していたものだったが、今はそうしたものは完全に消えて無くなってしまった。

彼らが貧しい中でたくさん子供を産む最も大きな理由は、1人や2人で将来親の面倒を見るのは大変だろう、という先読みの結果だと私は推量している。