ある若い娘の死について

先日、まだ十代の学生が殺された。
経緯についてはさんざん報道されているので、ここでは書かない。
気になったのは、遺族のコメントがテレビの報道番組で朗読されたことだ。
マスコミがいつものように取材という名目で横暴な振る舞いをしていると言うことについての不満と、大切な娘を殺されてしまったことに対する悲しみと憤りをマスコミを通して訴えたかったのだろう。

「犯人はなぜ娘の命を奪ったのか
こんな酷い方法を選んだのはなぜなのか」

これまでにも普通の頭を持っていたらなぜ、と思うような似た事件がいくらでもあった。
この手の犯罪を行う輩は、それをやる意味などを考える頭が無いとしか思えない。
あたかも野獣のように、怒りにまかせて自分に別れを告げた女を殺してしまう。
良識を持った一般人には理解しがたい行動なのだが、こうした生まれてから成人するまで犯罪者になるような育て方をされてきた輩の行動を理解することなどできる筈も無い。
損得という観点から考えても、相手を殺してどんな良いことがあるのかと思うが、別れて2度と会えない状態になるのと、殺してしまうのと、2度と逢うことはできないという点では同じなのに、どうしてこんな簡単なことがわからないのだろうか。しかも、人を殺してしまったら殺人罪で裁かれて数十年も刑務所にいなければならない。日本という経済を別にしたら、とても遅れた国の刑務所は江戸時代とたいした違いが無いもので、恐ろしく過酷な施設だ。ヨーロッパのマスコミの人に言わせると、日本の司法制度はヨーロッパの中世と大差が無いという。
刑務所は、昔は監獄と言われていたもので、刑務所と名を変えても実態は監獄と何も変わらない。
日本の刑務所は、塀の中に閉じ込められているだけではなく、檻房というコンクリートの厚い壁と鉄格子に囲まれた牢獄で過ごさなければならない。今年の夏は暑いと言われているが、刑務所の檻房には冷暖房は勿論扇風機すらもない。マスコミは危険な暑さなので冷房を等と言っているが、自然に任せた状態の中では人はけっこう強いものだと言うことを刑務所の囚人たちが教えてくれている。そうは言ってもこの過酷な暑さの中で扇風機もないというのはものすごく大変だし、辛いことは間違いのないことだろう。さらに、看守によって人間性も人権も全て無視された状態の中で、生きていくだけの最低限の食い物を与えられて命をつなぐだけの毎日を送るしかないところ。あんな所に何十年も入っていなければならないなんて、想像しただけでぞっとするのだが、馬鹿で甘やかされ放題甘やかされて育った人間には、殺人という重大な犯罪を犯してしまったら我が身にどのようなことが起こるのかと言ったことをイメージすることができないのだろう。しかし、実際に殺人犯と言うことで裁判の場で刑が確定してしまったら、どんなに泣こうがわめこうが恐ろしい現実が待っているのだ。要するに、他人を殺すと言うことは、自分の人生をも葬ってしまうも同然なのだが、こうした病的なまでに自己中心的な人間にとっては、損得や刑務所生活の惨めさや悲惨さなどを考えるよりも、怒りの感情が意識の全てを消し去ってしまうのだろう。まさに、野獣や野蛮人と同じで、利害得失も人間としての理性も何もかもが怒りの感情の爆発によって頭から消えてしまい、野獣のように相手の命を断つことでしか満足しなくなってしまうものらしい。

犯罪者の親は犯罪者にするために育ててきたつもりなど全くないのだろうが、この人は子供を犯罪者にしたいのかと思いたくなるような子育てをしている親を見ることはそう珍しいことではない。勿論、犯罪者にしたいのかと思えるような子育てをしたからと言って必ず子供が犯罪者になるわけではない。多くは普通に成人して、暴走行為や万引きなどと言った軽い犯罪程度は犯すかも知れないが、マスコミに大々的に取り上げられるような悪質きわまりない犯罪とは無縁の生活を営むのが普通だ。所が、おそらく、生まれ持ったものと育て方の両方が重なったときに、こういうとんでもない犯罪者となってマスコミを賑わすような残虐きわまりない罪を犯すようになるのだと思われる。

中略
「1番許せないのは私たち親が間抜けだったこと
さなを守れなかった
理解しがたい彼の娘への執着
度を超す愛情表現
監視し制限することにさえそうしてしまう気持ちにより添う努力をしながら何度も話し合ったことは無駄だった。
犯人にわかって貰おうなんて無理なことだったのにそれとわかっていなかった」

私も何度も犯罪者と話をしたことがあるが、その殆どが普通に話している限りは好人物なのだ。
それがなぜ暴走をしてしまうのかは、持って生まれたものと親の育て方があるとしか思えない。
この手の犯罪者に共通するのは、自分に対しては異常なまでに甘く、自分以外の人間に対してはものすごく厳しいというとんでもない性格の持ち主なのだ。
ま、誰しもが自分に対しては甘く、他人に対しては厳しいものだが、普通の人はその差はさほど大きくはないはず。特に、自分が好きな女の場合であれば、自分に対してよりも甘くなるのが普通なのではないだろうか。

最も問題なのは、多くの女はこの手の自己中心的な男が好きだと言うことだ。
一見したところとても好感度が高く、一見したところ優しそうに見える男。見た目もそう悪くはない。
しかし、つきあい始めればすぐに極めて危険性の高い性格だと言うことに気づくはずなのだが、なぜかその男から離れようとしない。これまでに殺されたり重傷を負った被害者の殆どが、何年もつきあっている。そして最後にはとんでもない結果と遭遇する羽目になるのだ。
こうした事件はもう数え切れないほど起きていて、その結果としてストーカー規制法などと言う法律までできているのだが、それでもこうした事件は後を絶たない。
言うまでもないことなのだが、こうした犯罪を犯す犯人が一番悪いに決まっている。ただ、もういい加減に気づいて貰っても良いのでは無いかと言うことを言いたくて、こうして書いている。
要するに、つきあい始めてすぐにわかるはずなのだ。この人は一見したところ優しそうに見えるが、とても粗暴な性格だと言うことに。そして、この人は自分に対してはものすごく甘いが、私に対してはとても厳しいと言うことに気がついたら、直ちにつきあうのを止めるべきなのだ。
今回の事件でも親が介入して本人と話し合ったと言うことが報道されているし、警察が親に警告めいたことを言ったと報道されている。しかし、相手の親に言うなんて、ばかげているも良いところだ。その親というのは、こうした自己中心的な人間を作った張本人なのだ。自分の息子がどういう性格の人間かは、親である本人が一番よく知っている。それなのに親に向かってあなたの子供はつきあっている娘に酷いことを言ったりしたりすると言ってみたところでどんな意味があるというのだろうか。親に言えば、子に対して的確で適切な対応をしてもらえるとでも思うのだろうか。もし、本気でそう思って親に伝えたのだとしたら、あまりにもナイーブすぎる。
子供と言ったところで、もう成人しているのだから、親が何を言ったところで聞くはずもないし、そのようなものすごく独善的な人間を作ってしまった人でもあることから、子供ととてもよく似た性格であることは疑う余地もない。当然のことながら、他人の言い分よりも可愛い我が子の言い分の方を重要視するに決まっているからだ。そして事件が起こったあとには、こういう親は必ずあの子はそんな子ではないという。このような人に向かって注意を喚起したり、子供のやっていることに対して何らかの対応を期待して訴えたり、要請をして見たところで、全く無意味だ。
私が親の責任を明言する理由に、昔はこのような人間は極めて少なかったと言うより殆どいなかった、と言うことがある。勿論、犯罪者自体は昔の方が多かったが、昔は本当に貧しくて食べるものにも事欠いて、それで犯罪に走るとか、酷い仕打ちを受けた恨みを晴らすためと言ったことによる犯罪が殆どで、このために動機がハッキリしていたことから警察も捜査がしやすかった。
昔の貧しい人々の生活がどのようなものだったかを知りたければ、林芙美子の「放浪記」を読めばわかる。放浪記は、林芙美子の自叙伝のようなもので、放浪記を読むとご飯が食べたいと言う切実なフレーズが頻繁に出てくる。
今は、当時とは比較にならない程に豊かになったことで、甘やかされるだけ甘やかされて育った子供が激増している。そうした甘やかされることが当たり前の環境で育った結果、ものすごく独善的になってしまい、つきあっていた女が別れるというと、それだけで別れを告げた女を殺してしまう。昔ならなんて女々しい奴だと言うことから、最も軽蔑された犯罪が、今では日常茶飯事になっている。
それにしても、危険な性格の人物だと知りながら、親に相談したり、警察に訴えると言うことまでしているのに、刑事手続きの段階になると、もう仲直りをしましたからなどと言って、うやむやにしてつきあいを続けるのはなぜなのか?
全く、理解しがたい言動なのだが、なぜ、警察に訴えざるを得ないような厳しい事態になっても、これを契機に別れようという気持ちにならないのか?
この遺族のコメントにもあるように、命がかかっているのだ。
悠長なことを考えていたら、この遺族と同じ運命が待っていることになる。
さらに、相手の男を殺人者にさせないためにも、相手が自己中心的な性格だと気がついたら、直ちに彼から離れ、2度と逢わないというのが最も良い解決方法なのだ。
まだ、つきあい始めたばかりなら、いくら独善的な男だとしても刃物を持ち出すなどと言うことにはならないはず。
何年も暴力を受け続け、酷い言葉で罵倒され続けるといった悲惨としか言いようのない仕打ちを受けながら、けんかをしては仲直りをし、極めて親密で濃厚なつきあいを続けたあげくに、もうこれ以上は無理という状態になってしまってから別れを切り出すから、自己中心的で自分に対しては病的なまでに甘く、自分以外の人間に対してはものすごく厳しいといった性格に火を付けることになってしまうのだ。
今回の事件の遺族の嘆きを見るに付け、もういい加減に同じことを繰り返して貰いたくない。

「悠長なことを伝えている場合ではなかった
家に入ってきたのがわかったときに躊躇無くすぐに通報すべきだった
彼の人生のことをなぜ考えたのだろう
逮捕されたら可哀想だなんてなぜ思ってしまったのだろう
甘かった 伝わらない
身勝手な解釈しかできない相手だったのに
激痛と恐怖
さながこの先得られたであろう幸せを一瞬にして奪われた
無念でしかない
これが夢だったら
時間が取り戻せたら
引っ越しをしていたら
危険な状況なことをもっとしっかり理解していたら」

今現在、危険なほどに自己中心的な性格の男とつきあっている人やその親族は、この遺族の嘆きを自分のこととして受け止めるべきだ。
この遺族と同じようなことを、これまでどれほど多くの人が言ってきたか知れない。
みんなこんな思いをするのは私たちが最後であってほしいというのだが、決して最後になることはない。
なぜなら、自分達が被害者になることはないと、実際にとんでもない事態に遭遇するまでは皆が思っているから。